文藝春秋20092月号

ドキュメント昭和天皇の最期

崩御から二十年―初めて明かされる病室の真実、君主の座への執念

 

佐野眞一(さのしんいち・ノンフィクション作家)

 

 

それまで波形を示していた心電図のモニターの緑色の線が、突然、一直線になった。

昭和64(1989)年1月7日午前6時33分。昭和が終わった瞬間だった。

皇居・吹上御所の二階の寝室。昭和天皇は、窓から外が見えるようにとの配慮から、

二十畳ほどある部屋の東向きに据えられたベッドに横たわっていた。

ベッドの左側に集まって最期を見取ったのは、皇太子ご夫妻(現・天皇、皇后)、浩宮、礼宮、紀宮らをはじめとする直系皇族、

侍医、看護婦ら約二十人だった。

皇太子妃・美智子、昭和天皇の四女の池田厚子、五女の島津貴子は、かけぶとんの下から天皇の足をさすった。

ハンカチを握りしめる皇族はいたが、嗚咽の声は誰からも漏れなかった。

侍医長の髙木顯が東京・代々木の自宅で、当直侍医の内田俊也から天皇危篤の連絡を受けたのは、

午前四時を少し回った頃だった。

「いよいよターミナル・ステージ(最終段階)です」

前々から何かあったときは、原宿警察署がパトカーを出してくれる手はずになっていた。髙木は4時47分に原宿署に電話し、

先導役のパトカーの到着を待って、

5時5分に娘婿の運転する車で自宅を出た。いつもなら30分かかるところが、わずか7分で皇居北側の乾門に到着した。

そこから吹上御所までは皇宮警察の車が先導した。

この日、東京地方の日の出は6時51分だった。夜明けまでまだ2時間近くあり、皇居の森は闇に閉ざされていた。

空は前夜からどんよりと雲って北風が吹き、最低気温は四度と寒かった。

部屋には、電話をくれた侍医の内田俊也、同じく当直侍医の大橋敏之、女官長の北白川祥子、それに数人の看護婦がいた。

間もなく侍医の加藤健三、伊東貞三も駆けつけた。

髙木はすぐに、皇后陛下、皇太子殿下・妃殿下、常陸宮殿下・妃殿下など皇族の方々に連絡するよう手はずをととのえた。

昭和天皇のいまわの際の場にいたのは、皇族、侍医、看護婦以外では、総理大臣の竹下登ひとりだった。

急を聞いた竹下が吹上御所に駆けつけたのは、天皇が息を引きとる四分前だった。

 

■現代史の中の「平成」

ベッドのそばの人工呼吸器は、補助呼吸をつづけていた。髙木はそれに目をやって、

「いかがいたしましょうか。ただいま、あのように行わせていただいておりますが」と皇太子殿下に聞いた。

皇太子は「どうぞそのままおつづけください」と言った。

臨終の少し前、髙木は聴診器を天皇の胸にあてていた。心音が聞こえるか聞こえないという状態になったとき、

侍医の大橋が「心停止です」と言った。その言葉通り、聴診器を通してわずかに聞こえていた心臓の音が止まった。

髙木は懐中電灯を天皇の瞳孔にあてた。瞳孔は完全に開いていた。

髙木はおもむろに懐中時計を取り出し、時間を確認した。時計の針は6時33分ちょうどを指していた。

髙木は「臨終です」という言葉を使うかわりに、ベッドに横たわる昭和天皇に頭を深々と下げ、

次いで、ベッドの脇にいた皇太子ご夫妻に最敬礼をした。夫妻は黙って応答の会釈をした。何もかも静かな最期だった。

臨終の場に立ち会った侍医の伊東貞三は、著書の『回想の昭和』(医学出版社)に、そのときの気持ちをこう書きとめている。

〈皆、終わったと思いました。総てが終わったんだ、昭和も終わったんだ。総てが過去のこととなった〉

この天皇崩御の場面には、偉大なる家父長の死が明らかに語られている。

現在、天皇家と皇太子一家の確執が取りざたされていることを思えば、

天皇家一族が瀕死の王のもとに寄り添って最期を看取る姿はあまりにも象徴的である。

その変貌ぶりからは、この二十年の歳月の流れのなかで天皇家のみならず日本の家族が溶融し、

崩壊に瀕してしまったことの意味が、われわれ日本人ひとり、ひとりの胸にあらためて重苦しく迫ってくる。

 

私は本号から始まるこの短期集中連載で、昭和天皇の最期の日々と、「昭和」という時代をあらためて検証するとともに、

昭和64年1月7日をもって「平成」と改元された時代の意味を問うていくつもりである。

ことしで丸二十年を迎えた平成という時代が、わが国の現代史の一角にそろそろ顔をのぞかせはじめたと思うからである。

二十年という歳月は大正よりも長い。

天皇を物神崇拝するあまり、ひとりの人間の死が、その後の社会変動の導火線になったという単純な見方には与しない。

また昨今の昭和レトロブームに便乗して、ことさらセピア色した昭和という時代を強調して、

読者を過剰な郷愁に誘おうとも思わない。

しかし、元号というものが、古代から日本人の時間感覚を強く縛ってきた制度だったということに思いを馳せれば、

昭和から平成への移行が、社会変化のひとつのメルクマールになっているとはいえるだろう。

 

■今日の危機の前兆が

昭和64(平成元)年の年表を作ってみて、気づくことがある。まずこの年に物故した二人の有名人が、

二人とも「国民的」という形容詞がつく人物だったことである。

4月27日に、“経営の神様”という名をほしいままにした松下電器産業(現・パナソニック)創業者の松下幸之助が

94歳で鬼籍に入り、6月24日には不世出の大歌手といわれた美空ひばりが52歳で他界した。

いずれも昭和という時代を象徴する人物の相次ぐ死は、昭和天皇があの世に道連れにした、というあらぬ妄想まで呼び起こす。

世界史的変化も起きている。11月9日にベルリンの壁が崩壊し、戦後四十年以上続いていた東西冷戦構造の幕が閉じた。

その一方で、6月4日には中国で民主化を求める学生らを戦車で弾圧した天安門事件が起きている。

国内の政治・経済問題に目を転じれば、前年から政界を揺るがしていたリクルート事件のあおりをうけ、

竹下(登)内閣が退陣(6月2日)に追い込まれた。これにつづく宇野(宗佑)内閣も、

女性スキャンダルで69日というわが国県政史上三番目の短命内閣に終わった。

いまにして思えば、これがいまにつづく保守系政治家の小粒化と、自民党政権メルトダウン現象のはじまりだった。

竹下以降、実力による派閥結成-自民党総裁-内閣総理大臣という図式での天下取りは完全に姿を消した。

天皇崩御後、一部には“諒闇(りょうあん)不況”をあやぶむ声もあった。

だが、1985年のプラザ合意からはじまったバブル景気は一向に衰える気配はなく、

この年の東証大納会(12月29日)の終値は、38915円87銭の史上最高値をつけた。

また大卒の有効求人倍率は、2.68倍という空前の売り手市場になった。竹下内閣の悲願といわれた消費税(3%)が導入されたのも、この年の4月1日だった。もし、こうした未曾有のバブル景気がなければ、消費税の導入は到底無理だったろう。

尾上縫なる大阪・ミナミの料亭の女将が、神がかり的占いで金融機関から延べ2兆8千億円もの天文学的金額を借り入れして、

詐欺罪で逮捕されたのも、このバブル終末期の時代だった。 

いずれにせよ、派遣社員が容赦なくクビを切られ、百年に一度の世界的不況といわれる現在の経済危機から考えれば、

隔世の感を禁じ得ない。

その後の不安な世相を先取りする不気味な事件も起きている。前年からこの夏にかけて、東京と埼玉で幼女が連続誘拐され、

殺害されて、遺骨が家族に送りつけられる宮崎勤事件が起きた。世間を恐怖のどん底に叩き込んだこの事件は、

14歳の少年による1997年の神戸児童連続殺傷事件を予感させる猟奇的な事件のまえぶれともいえた。

2008年6月、東京・秋葉原で7人が殺害された無差別殺傷事件や、同年11月の厚生省元次官テロ事件といった重大犯罪が起こるたび、精神鑑定をめぐって紛糾した宮崎勤事件は、必ずといっていいほどひきあいにだされる。

それは、あの事件の衝撃がいまでも生々しく尾を引き、人々の記憶のなかに重く沈殿しているからだろう。

11月4日には、横浜の坂本堤弁護士一家が突然失踪するという謎めいた事件が発生した。それがオウム真理教幹部による一家三人の誘拐殺害事件だったということが判明するには、それから六年後のオウム真理教本部の強制捜査まで待たなければならなかった。

いずれも、昭和の時代の事件には考えられない犯行の動機であり、事件の様態だった。

私は平成元年に起きた出来事を書き抜いた年表をもう一度眺めながら、この年に物故した人物といい、自民党政治の崩壊や、

経済・社会が融解する状況といい、世の中に流行した風俗や、社会を騒がせた事件といい、

そしてこの稿で検証する昭和最末期の皇室の動きといい、

そこには今日われわれが直面する危機の前兆が胚胎していたのではないかという思いをいまさらながら深くした。

昭和と連続しているようで明らかに断絶した平成の政治・経済の動きと、

昭和末期に芽ばえて平成に姿を現した風俗や事件などの社会現象について述べるのは、次号以降に譲りたい。 

本号ではまず「天皇Xデー」といわれた昭和最末期の緊迫した皇室の動きを振り返りながら、

昭和天皇が過ごした最期の日々を関係者の証言や、この二十年の間に発掘された資料をもとに再現していこう。

そこから、昭和の皇室と平成の皇室の「段差」を読みとっていただければ幸いである。

二十年という歳月は、その当時はマスコミ関係者が胸にしまって口に出すのがはばかられる事実を解禁させ、

宮内庁幹部の卜部亮吾日記や「富田メモ」の公開を決断させる歴史的時間となった。

これから述べることの大半は、今回、私が取材してつかんだ新証言や新事実、さらにはそれら新資料に基づくものであることを最初にお断りしておきたい。

 

■天皇嘔吐する

昭和62(1987)年4月29日の天皇誕生日、この日、歴代天皇中最高齢の満86歳を迎えた昭和天皇は、

皇居・豊明殿に政官界の要人を集めた昼餐会で、突然、食べ物をもどした。

この昼餐会には、それから約一年八ヵ月後に竹下内閣の官房長官として、「平成」の新元号を国民に掲げることになる小渕恵三と千鶴子夫人も招かれていた。

早いもので、首相在任中に夫を突然亡くしてもう九年目になる千鶴子婦人とは、仏間に元総理の小渕の遺影が飾られた東京・北区王子の自宅で会った。首相在任当時、小渕の私設秘書だった小渕優子が、小渕内閣から数えて五つ目の政権になる麻生(太郎)内閣で、少子化担当の特命担当大臣に抜擢される時代である。

「天皇誕生の祝賀会で私どもは割と端の方の席にいたんです。宴会が始まって30分ほどして、陛下のいらっしゃる方が、少しざわめいて騒ぎになったんです。私の前の席に座っていたのが陛下の主治医の方だったらしく、すっと席を立たれていったのをいまでもはっきり覚えています」

天皇は美智子妃と常陸宮妃に支えられてそのまま退席した。宮殿内の移動には車椅子が使われた。このときマスコミは色めきたったが、天皇は翌々日にはご進講を受け、5月20日に赤坂御苑で開かれた春の園遊会でも招待客とにこやかに言葉を交わしたため、マスコミは「天皇Xデー」に対する警戒の目をゆるめた。

マスコミの間で、「天皇Xデー」が本格的に囁かれ始めるのは、それから約四ヵ月後の9月19日、

朝日新聞が「天皇陛下、腸のご病気/手術の可能性も/沖縄ご訪問微妙」という大スクープを報じてからである。

昭和44(1969)年から平成3(1991)年まで侍従をつとめ死の五年後の2007年に日記が公刊された卜部亮吾も、

天皇が嘔吐した日の日記に「(〈体温〉35.9℃ 血圧130-70 脈拍8090)で御異常なく吐いてさっぱりしたと ひと安堵」と記している。

この段階で天皇の内部にただならぬ変化が生じているらしいことを察知した関係者は、誕生祝いの昼餐会で席を立ったひとりの侍医を除いて、まだ誰もいなかった。

その人物は、昭和58(1983)年に侍医となり、昭和天皇の臨終の場にも立ち会うことになる伊東貞三である。

伊東は、前記の『回想の昭和』のなかに、天皇が嘔吐する八日前の潜血検査で大便に強い陽性が出ていたことを記している。

同書があまり一般の目にふれない形で出版されたのは2007年のことだから、これも一部の関係者を除いていままでほとんど誰にも明かされてこなかった真実である。 

さらに驚くのは、天皇の体重がこれより半年近く前の昭和61年末から減少しはじめた、と書かれていることである。

思えばこれが「天皇Xデー」のカウントダウンに向けての暗黙のゴーサインとなった。だが、前述した通り、

それに気づいたマスコミ関係者はまだひとりもいなかった。 

天皇の異変にいち早く気づいた伊東は、長崎の鳴滝塾でシーボルトからオランダ医学を学び、徳川幕府十三代将軍の家定の御典医をつとめた伊東玄朴を高祖父に、明治天皇の侍医をつとめた伊東方成を曾祖父にもつ、わが国屈指の名医一族である。

伊東自身も天皇家とは格別に縁が深く、昭和天皇崩御後も、乞われて香淳皇太后の侍医になった。そんな関係もあって、伊東は平成12(2000)年、香淳皇太后の逝去を機に侍医を辞めたいまも、月に一度ほど皇居内のテニスコートで現陛下とテニスをする間柄である。

伊東にはお濠をはさんで皇居が間近に見える東京会館のコーヒーショップで会った。伊東の話で興味深かったのは、著書にもふれられている天皇の体重測定にまつわる話である。

「体重計はいまどきのヘルスメーターではなく、昔ながらのものです。そうそう、銭湯の脱衣場によくあった天秤分銅式の体重計です。お体重を計るには苦労しました。まず乗っていただくのが大変です。着衣のまま計りますから、あとてお着替えいただいたら、服の重さを計って差し引かないといけない。失敗はゆるされません。もう一度お願いしますというわけにはいかない」

この方法で計った天皇の体重は、昭和61年12月から毎月数百グラムずつ減少していたという。

そして前回より何グラム変化したかを毛筆で書いて天皇に提出するのが、伊東の月一回のつとめとなった。

天皇の食事は毎食ごとのカロリーと摂取量がグラム単位で、侍医によって決められている。10時と3時のお茶の量も正確に測定されている。そこまで厳密に管理されている天皇の体重が、62年に入って1月、2月、3月と数百グラムずつ減少していることは、伊東の目にはネガティブバランスそのものに映った。

伊東の目に映った病に伏す前の昭和天皇の入浴スタイルについても述べておこう。入浴に介助はなく、一坪ほどの着替え所から出てこられるときは、夏でもすでにネクタイをつけている。侍医といえども玉体を直接目にしてはいけないのである。

侍医は天皇が浴室で倒れる音はしないかと、廊下に座って壁越しにじっと耳を澄ましていなければならない。

天皇の腸の手術の決定から崩御にいたる侍医団の必死の闘いについては、また後で述べる。ちなみに、天皇崩御の時の侍医長の髙木顯が前任の侍医長と交代したのは、天皇が誕生祝いの昼餐会で嘔吐した二ヵ月後の昭和62年6月である。

 

■「定例参内中止」の貼紙

髙木や伊東らの侍医団が、息をつめる思いで天皇を見守った最期の百数十日について述べる前に、

天皇の腸の病気をスクープした元朝日新聞宮内庁記者の清水建宇の話を聞こう。

清水はテレビ朝日系の「ニュースステーション」にコメンテーターとしてレギュラー出演していた時期もあるからご記憶の方もいるだろう。

清水が警視庁担当の遊軍記者から宮内庁担当記者となったのは、天皇が皇居・豊明殿で嘔吐してから約四ヵ月後の昭和62年9月である。初仕事は、9月8日の午前11時から那須の御用邸で行われた静養中の天皇の記者会見だった。

「この天皇陛下の会見は完全オフレコで、記者会見とはいわず、『ご機嫌奉伺』ということもそのときはじめて知りました。

記者がご機嫌を伺いにあがったら、たまたま天皇がそこに通りかかったという建前をとるんです。僕は決して天皇に敬愛の念を抱いていたわけではないのですが、御用邸の玄関前にカーキ色のジャンパー姿で登場した天皇には、やはりオーラというのか、他を圧する風圧のようなものが感じられました。

昭和天皇は新聞記者から質問がでると、そちらを体ごと振り向いて、正対する。気圧されるような迫力を感じました。

特に眼光の鋭さには、たじろがされました。

もう時効だからお話ししますが、僕はそのとき、『この夏どんなご本を読まれましたか』と質問したんです。というのは、

那須から帰られると、昭和天皇としては戦後初めての沖縄訪問が予定されていましたので、きっと沖縄関係の本を読まれているのではないかという期待があったからです。答えは『いろいろ読んだが、どんな本を読んだかは、答えられない』というものでした。

僕は新米の宮内庁記者だから知らなかったんですが、天皇は人名にしろ、書名にしろ、特定の固有名詞をあげることは絶対にしない方です。天皇陛下は大相撲が大好きだとか、NHKの朝の連ドラを熱心に観ているとか、そういう話は全部侍従さんが言っていることで、陛下ご自身は何もおっしゃっていないんですね。病の影ですか?僕はそれが天皇陛下との初対面でしたから気づきませんでしたが、僕の大先輩のベテラン宮内庁記者の岸田英夫さんは後で、『だいぶ小さくなられたな』とおっしゃっていましたね」

清水が言ったように、この頃のマスコミの関心はもっぱら天皇の沖縄訪問にあった。

清水が宮内庁記者時代にまとめたファイルには、天皇が那須御用邸の静養に向かって八日後の昭和62年7月23日に、

宮内庁からオフレコでマスコミ各社に通達された天皇の沖縄県行幸の日程表がはさまれている。

第42回秋季国民体育大会(海邦国体)に天皇が臨席する予定で組まれたスケジュールは、10月23日の午前9時15分に皇居を出発し、沖縄に四泊して10月27日の16時11分に東京国際空港到着の便で帰京する日程になっている。

しかし、これは幻の計画に終わった。晩年の天皇が沖縄訪問に異常なほどの執着をみせたことについては、またあとでふれる機会があるだろう。

宮内庁担当記者になってまだ間がない清水は気づかなかったと言ったが、天皇の異変はすでに那須の御用邸から始まっていた。

前記の伊東貞三の著書に、これも一般には初めて明かされる、次のような重大な証言がある。昭和62年7月、天皇が那須の御用邸で過ごされた頃の記述である。

〈この年の夏の頃より我々医師とそしてなによりも陛下の病気との闘いがはじまりました。(中略)62年の那須のお供も皆、難渋しました。お食事がすすまない。召し上がると嘔吐される、(中略)ご拝診すると腹部膨満感がある。診断としては多分胃にガスが貯留しているらしい。7月の初めに宮内庁病院で侍医の一人がとられたCTの所見と一致する〉

伊東はこれとは別に、自分の日記に「胃の幽門狭窄ではないか、胃がんでなければよいが」と書きとめたという。

天皇は那須御用邸の近くを散歩する途中で倒れたこともあった。

8月2日には、二リットルもの吐瀉物を吐いて侍医たちを驚かせた。

にもかかわらず、天皇は侍医たちに何も苦痛を訴えなかった。

それだけに、侍医たちの方から診察や検査を進言するのはためらわれた。

伊東が意を決して天皇の検査を侍従らに進言したのは、8月24日、宇都宮のホテルで宮内庁関係者が休憩をとったときだった。伊東は『回想の昭和』で、このとき、天皇の胃のなかに管を入れ、バリウムを注入することが決まった、と述べている。

天皇はこの提案を拒否しなかった。

その態度を見て、侍医たちはやはり陛下は相当にお苦しみだったんだな、と推察した。そして、これからはすべてわれわれで進めていかなければならない、と決意した。

天皇が那須の御用邸からお召し列車で原宿駅の特別ホームに帰着したのは、それから十八日後の9月11日だった。

このとき、ちょっとしたハプニングがあった。天皇がホームと車寄せ間のスロープでよろけたのである。 

7月15日に那須の御用邸に出発する際、皇后が乗車に手間取ったので、マスコミは皇后の体調の方に関心を向けていたが、

むしろ体調の異変を示したのは天皇の方だった。

初対面の天皇に恐懼(きょうく)した宮内庁新米記者の清水も、さすがに異変に気がついた。

「僕は新任の新米記者ですから、那須から帰って宮内庁のなかをいろいろ挨拶回りしていました。天皇が東京に戻った9月11日、少し遅くまで残って、帰りがけにふと東宮総務課の掲示板を見るともなく見ると、『本日の皇太子ご夫妻の定例参内は中止になりました』と書かれた紙が、目につかない感じで貼られていた。なんだか記者が帰ったのを見越して目立たないように貼ったような感じでした。

そのことを社に帰って、先輩の岸田さんに伝えると、『清水くん、それはヘンだ』という。ご参内とは、毎週金曜日に皇太子ご一家が両陛下を訪ね、御所で一緒に夕ご飯を食べることです。それが中止になった。いまの皇太子ご夫妻ならともかくですが(笑)、それは大変な異変だというわけです。岸田さんはそれだけでピンとくるものがあったらしく、『これは大変なニュースの始まりになるかもしれんぞ』と言っていました」

 

■十数枚のレントゲン写真

清水は翌日から徳川(義寛)侍従長など宮内庁幹部に取材をかけたが、返ってくるのは要領を得ない答えばかりだった。

スクープのきっかけは、ひょんなことだった。これも今回初めて明らかにされる事実である。 

9月16日、相変わらず新任の挨拶回りをつづけていた清水が、夜の6時半頃にふと外から宮内庁の建物を見上げると、

四階の一室に煌々と明かりが点いていることに気がついた。

「6時半といえば、宮内庁時間ではかなり遅い方です。ほかの職場ではほとんど職員が残っていませんから、珍しいことだと思いました。その部屋は確か侍医の控え室だとわかったので、この機会に挨拶に行こうと思って、そこに行ったんです。 

ドアを開けて、『朝日新聞の清水と申しますが、新任のご挨拶にまいりました』と言いました。部屋のなかには、3、4人の姿が見え、机の上のあちこちに大判のレントゲン写真が十数枚も広げられていました。すると、一番年長の医師が、『早々に立ち去れ』と厳しい声で言ったんです。その人が前侍医長の星川(光正)さんだということは、あとでわかりました」

清水がそのことを岸田に伝えると、岸田は「それは大変だ、レントゲン写真の部位はどこかわからないか」と尋ねた。

「いや、そこまではわかりません、というしかなかったんですが、岸田さんはそれからあちこち独自の取材源にあたっていたんだと思います。そこで岸田さんが確信を得た結果、(9月)19日のスクープに結びついたんです」

前に紹介した卜部亮吾日記に、岸田の取材が宮内庁中枢に及んでいたことを示す興味深い記述がある。該当箇所は、清水が侍医控え室でレントゲン写真を目撃した翌日の昭和62年9月17日の日記で、そこには、「岸田記者に不穏の動きあり警戒」「岸田記者様子さぐりに現れる、(富田朝彦)長官、(徳川)侍従長葬儀からの帰りを待って(中略)報道対策について協議、18日夕相撲と一緒に出してオフレコをかけることを希望するも容れられず」といった生々しい記事がはっきりと書かれている。

これは、天皇の腸の手術についてオフレコ扱いで報道しなければ、かわりに大相撲観戦取りやめのスクープを提供するという裏取引を申し出たが、岸田から断られたという意味である。

9月19日の朝刊に載った朝日のスクープ記事の全文を紹介しておこう。

〈天皇陛下は、今夏から体調をくずされ、侍医団が精密検査を行った結果、腸に疾患があることが、18日明らかになった。宮内庁筋によると、これまで内科的治療が行われ、日常生活にも大きな変化はなかったが、場合によっては来週にも入院、

手術を受けられる可能性が出てきた、という。

陛下は秋の国体を機会に、10月23日から沖縄をご訪問になる予定だが、これにより、ご訪問が実現するかどうか微妙になりそうだ。また、陛下がご入院されるような場合には、皇太子殿下が、天皇の国事行為を臨時代行されることになる〉

この日、昭和天皇の孫の浩宮が、天皇訪沖のいわば露払い役として沖縄に向けて、羽田を出発した。昭和天皇の沖縄訪問は、天皇家、宮内庁あげての悲願だったことがわかる。

それは反面、もし朝日のスクープがなければ、うるさい記者連中を浩宮に随行させて沖縄に追い払っているすきに天皇の手術を秘密裏に行い、あとは適当な発表をしてお茶をにごすという宮内庁のことなかれ主義の表れだったと見ることもできる。

事実、朝日のスクープ記事が載った日、羽田には主だった皇室記者が全員集まった。

この日の卜部日記には、「岸田記者始め沖縄キャンセル組15名くらい」の記述がみえる。

それにしても驚かされるのは、公務に対する天皇の忠勤ぶりである。朝日がスクープする前日の9月18日、天皇は来日中のアイスランド大統領と約30分の会見をしている。

天皇の精密検査が行われたのは、朝日のスクープより六日前の9月13日である。胃に異常はなかったが、十二指腸が数センチにわたって細くなっていた。十二指腸の太さは縫い針ほどしかなく、侍医たちはこれでよく食べ物が通ったものだ、と驚いたほどだった。 

狭窄の原因は、ガンである可能性がほぼ百パーセント。これが侍医団の出した結論だった。だが十二指腸ガンが稀であることを知っていた侍医団は、それ以外の部位の悪い病気を想像せざるを得なかった。この頃になると、嘔吐、下血の頻度も激しくなり、天皇の体重は著しく減少していた。

侍医団が天皇の外科手術を決断 するのは、翌9月14日である。手術の方針は9月18日に天皇に伝えられた。

天皇は9月22日午前10時過ぎに宮内庁病院に到着し、11時過ぎにストレッチャーで手術室に入った。

森岡恭彦・東大医学部教授(当時)による執刀が開始されたのは11時55分、手術が終了したのは14時30分だった。

こうして、歴代天皇中、初めて玉体にメスが入れられた。昭和天皇にとって、手術はいうまでもなく、入院すら初めての経験だった。

開腹手術の結果は、侍医長の髙木顯が平成3(1991)年に出版した『昭和天皇最後の百十一日』(全国朝日放送)で、

明らかにしている。ちなみに髙木は出版一カ月前に他界した。おそらく遺書を書くつもりだったのだろう。

髙木は同書のなかで、手術前、十二指腸以外の部位に腫瘍があり、これが通過障害を起こしているのではないか、とはいえ、

その見方に100パーセントの自信があったわけではない、と述べている。

〈しかし、開腹して自分自身の目で確かめたところ、膵臓が盛り上がっており、明らかにガンだとわかりました。確率的には90パーセントくらいかなといった感じです。

前年6月のCTスキャナーによる断層撮影のときに比べて、膵臓の一部がおよそ二倍近く、鶏卵大にまで大きくなっておりました。幸い転移はしていませんでしたが、この瞬間、私の頭には、これは困ったことになったとの思いが浮かんできました〉

侍医団の方針はあくまで通過障害の原因を取り除くことにあったので、十二指腸と空腸の間をバイパスでつなぐ手術に専心し、

ガンと思われる部位を切除することはしなかった。

念のため天皇の体から細胞の一部を検体用に採取し、後日検査したところ、やはり間違いなくガンだということがわかった。

 

■最後まで告知はなされず

しかし、手術後、天皇の容態を心配してやってきた中曾根(康弘)内閣の官房長官の後藤田正晴に対しては、手術が成功したことのみを報告し、ガンの事実は一切伝えなかった。夕刻開かれた記者会見でも、「慢性膵炎の疑い」という既定方針通りの所見で押し通した。天皇本人に対しても、ガン告知は最後まで行われなかった。

現天皇は前立腺ガンであることを自分から明かしている。昭和天皇のガンを本人にもあくまでも秘匿しつづけた時代との差は、

歴然としている。

ガン告知がいくらあたりまえの時代になったとはいえ、日本社会に決定的に影響を及ぼす天皇のガン問題を、ガンに対する認識の一般的趨勢と同日に論じることはできない。やはり昭和の御代と平成の御代の間には、本質的な断層が横たわっている。 

この日、天皇の入院と手術にともなって、国事行為の臨時代行を当分の間、皇太子に委任することが午前の閣議で決定された。

天皇の病気による臨時代行が設けられたのは、これが初めてだった。皇太子は、午前11時過ぎ、東宮御所で徳川侍従長から「国事行為の臨時代行」の委任状(勅令)を渡された。天皇の手術が始まる直前に、「天皇職」の引き継ぎが完了したわけである。

それから二週間後の10月3日、皇太子夫妻は、アメリカに向け一週間の旅に出発した。当時のアメリカ大統領のロナルド・レーガンと日本の総理大臣の中曾根康弘の緊密な間柄を示す、ロン(ロナルド・レーガン)-ヤス(中曾根康弘)関係が日米相互の基軸とされた時代だった。皇太子訪米中の国事行為は、浩宮が代行することになった。

侍医長の髙木が、天皇がガンであることを皇太子に伝えたのは、皇太子がアメリカから帰国して、天皇のお見舞いのため宮内庁病院を訪れた10月16日である。

この段階で天皇のガンを知っていたのは、侍医団以外では、皇太子、富田宮内庁長官、徳川侍従長など、ごく限られた関係者だけだった。

髙木は前掲の著書で「手術の直前に、『通りの悪いところがありますので、バイパス手術をいたします』と申し上げましたところ、陛下からは『そうか』とひとことあっただけです」という話を明かしたあと、天皇が侍医団に全幅の信頼を寄せていたことを物語る次のようなエピソードを紹介している。

〈あるとき、側近の者が陛下に「お暑いですか?」とお聞きしたことがあります。そのときの陛下のお答えは、「それは侍医に聞け」というものだったそうです。暑い、寒いも侍医の判断にお任せしていただけるわけですから、「病気のことはすべて侍医に任せる」というお気持ちだったのではと推察申し上げておりました〉

この頃、巷では天皇崩御を織り込んで、大日本印刷や王子製紙などの印刷、製紙銘柄に買い注文が殺到していた。

しかし、こうした「改元銘柄」の高騰の動きとは裏腹に、天皇は驚くべき生命力を発揮して奇跡的な回復をみせた。

開腹手術後十五日目の10月7日、天皇は宮内庁病院を退院した。これ以降、天皇は吹上御所二階の静養室で過ごすことになった。この日は中秋の名月だったため、吹上御所一階のテラスにはススキをはじめとする秋の野草と、月見団子が供えられた。

天皇は順調に体力を回復し、12月15日にはそれまで皇太子に委任されていた国事行為の臨時代行の一部を解除することが閣議決定した。天皇が公務に復帰したのは、9月22日の開腹手術以来、八十四日ぶりだった。こうして昭和62年は、束の間の安堵のうちに暮れた。

 

天皇を奇跡的に回復させたエネルギー源は何だったのか。

これまでたびたび引用してきた卜部日記や、昭和63年6月に藤森昭一に代わるまで、十年あまりにわたって宮内庁長官をつとめた富田朝彦が記録し、その一部が2006年に公開されたいわゆる「富田メモ」などを詳細に検証すると、天皇の座を脅かされることへの怖れや、沖縄に対する贖罪感、靖国神社に対する複雑な思いなどが、昭和天皇の内部に渦巻いていたことがわかる。

まず天皇の座を脅かされることへの怖れだが、昭和57(1982)年8月14日の卜部日記の記述は、生々しい。

その翌日は三十七回目を迎える終戦記念日にあたっていた。天皇は千代田区北の丸公園の日本武道館で毎年行われる戦没者追悼式にいつも通り出席する予定になっていた。だが、この年は那須の御用邸で発熱したため、大事をとって、出席は取りやめとなった。

この年の戦没者追悼式には、代わりに皇太子が出席した。そのことを頭に入れた上で、次の記述をお読みいただきたい。

〈認証式代行については反対はなさらないがお進みではない御様子 さらにお言葉はないだろうねとの念押し〉

要するに天皇は、卜部に「皇太子が認証式に出席するのは構わないが、彼らに直接何もしゃべらないだろうな」と聞いている。つまり、くれぐれも国事行為の臨時代行であることを忘れないように、と釘を刺しているのである。

この執念が、昭和天皇にとって最後の戦没者追悼式となった昭和63年8月15日の鬼気迫る行動につながった。

このとき天皇は那須の御用邸からヘリコプターで帰京し、ふらつく足取りで戦没者追悼式に出席している。

昭和天皇は皇太子時代、病弱な大正天皇を側近の牧野信顕らが“棚上げ”する形で、摂政という事実上の天皇の座を奪い取った。

そのトラウマまじりの強迫観念が、病による退位を峻拒する不退転の決意となり、天皇の座は生涯譲らないという強い意志となったのではないか。昭和天皇は死ぬまで現役天皇でありつづけることにこだわった君主だった。

 

■「記憶」の王

沖縄に対する強い執着心も、天皇の内面の遍歴を知る上で興味深い。沖縄訪問への思いがストレートに伝わってくるのは、

天皇が昭和62年に詠んだ次の歌である。

〈思はざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果さむ つとめありしを〉

しかし、昭和天皇は天皇在位中ずっと沖縄にこだわっていたというわけではない。

昭和40年代の天皇発言を調べると、沖縄に対してむしろ冷ややかな反応を示していることがわかる。

宮内庁病院を退院して二十数日後の昭和62年10月31日の卜部日記に、

「沖縄県の署名簿をお居間でご覧、漢那は漢那艦長の関係かとお尋ね」という記述がある。

沖縄県の署名簿とは、健康を回復した天皇の訪沖を望む沖縄県民から寄せられた嘆願書のことである。

天皇にはこの段階でもまだ沖縄訪問の意思が強かったことがわかる。

天皇の質問のなかにある「漢那艦長」とは、皇太子時代の大正10(1921)年、ヨーロッパ歴訪の旅で搭乗した戦艦香取艦長の漢那憲和のことである。

この旅の途次、皇太子時代の天皇は、わずか九時間の滞在だったが沖縄本島に上陸し、那覇生まれの漢那艦長の案内で首里城などに立ち寄っている。

六十年以上前の出来事を昨日のことのように思い出す天皇のこの記憶力は、人並み外れている。

昭和天皇が「記憶の王」といわれるゆえんである。

天皇の異様なほどの記憶力をうかがわせる記述は、「富田メモ」のなかにもある。朝日が天皇の腸の病気をスクープする約一カ月前の昭和62年8月15日の記述である。

この日、天皇は日本武道館の戦没者追悼式に臨んだ。その追悼式会場の特設階段について、「松力(原文ママ)のことや高松妃の事故が頭をかすめ」というメモが記されている。これは富田が天皇から、階段には十分気をつけてくれといわれて書きとめたメモだと思われる。

「高松妃の事故」とは、昭和44年6月、高松宮妃が新潟からの帰路、羽田空港に到着した飛行機のタラップで転倒して、

足を捻挫したことを指している。

また「松力」とは、おそらく読売新聞社主の正力松太郎のことである。正力は、昭和34年6月、後楽園球場で行われた日本初のプロ野球天覧試合で天皇を先導し、階段から足を滑らして怪我をしたことがあった。

「正力のこと」とは、その出来事を指しているが、「記憶の王」といわれた昭和天皇の記憶力はそれだけにとどまらず、

摂政時代の出来事まで遡っていたように思われる。

大正12(1923)年12月、帝国議会の開院式に向かっていた摂政裕仁は、虎ノ門付近で難波大助というテロリストからステッキ銃による狙撃を受けた。摂政に怪我はなかったが、警備責任者だった警視庁警務部長の正力は懲戒免官となった。

正力が読売新聞入りしたのは、これが直接のきっかけだった。天皇が「正力のこと」と言ったとき、あのときはすまなかったという思いとともに、大正天皇がまだ存命中の六十年以上前の禍々しい出来事が、生々しくよみがえってきたような気がしてならない。

 

■沖縄とシーボルト文書

話を天皇の沖縄への思いに戻す。それまで冷ややかだった沖縄への思いが、郷愁にも似た感情にかわるのは、

病を得た天皇が自分の死期を自覚せざるを得なかったからだろう。だが、この変化はそれだけでもたらされたものではない。

昭和天皇と沖縄の関係でよく知られているのは、宮内庁の御用掛として天皇とマッカーサーの会見などの通訳をつとめた寺崎英成が敗戦後書き残した「御用掛日記」である。

これはGHQ(連合国軍総司令部)と皇室との間でどんな外交交渉があったかを示す一級資料だが、昭和22年10月3日の日記に、次のような記述がみえる。

〈11時シーボルトに会ふ。沖縄ハアメリカが自由にす、信託かリースかその方向ハ定まってゐない、右ハ陸軍省輿論の意見なり〉

シーボルトはマッカーサーの意を体したGHQの外交局長(主席政治顧問)である。

これだけではよく意味がわからないが、昭和54年4月号の雑誌「世界」に掲載された進藤榮一(当時、筑波大学助教授)論文によって、この記述に関する驚くべき

事実がすっぱ抜かれた。日本占領期の米公開外交文書を渉猟して書かれたこの論文によれば、昭和天皇は沖縄問題に関して次のようなメッセージを寺崎からシーボルトに伝えさせたという。

〈1、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう希望する。これは米国に役立ち、また日本に保護を与えることになる。

2、沖縄に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借-25年ないし50年、あるいはそれ以上ーの擬制にもとづくべきであると考えている。

3、このような占領方法は、米国が琉球諸島に対して永続的野心を持たないことを日本国民に納得させ、またこれにより他の諸国、とくにソ連と中国が同様の権利を要求するのを阻止するだろう〉

米軍の沖縄駐留は天皇自身の希望だったことが、明らかにされたわけである。50年以上の租借といっていることから考えて、

昭和天皇は自分の目が黒いうちに沖縄が復帰することはないと考えていたのかもしれない。

沖縄が本土復帰するのは、昭和47(1972)年5月である。

この進藤論文は天皇も非常に気になったらしく、昭和44年から昭和60年まで侍従長をつとめた入江相政の弁解じみた発言が書きとめられている。

該当するのは、昭和54年4月19日の日記である。進藤論文が掲載された「世界」の発売時期とぴったり重なる。

〈お召といふことで出たら昨夜、赤坂からお帰りの車中でうかゞつた「沖縄をアメリカに占領されることをお望みだつた」といふ件の追加の仰せ。蒋介石が占領に加はらなかつたので、ソ連も入らず、ドイツや朝鮮のやうな分裂国家にならずに済んだ。同時にアメリカが占領して守つてくれなければ、沖縄のみならず日本全土もどうなつたかもしれぬとの仰せ〉

沖縄は太平洋戦争で日本の捨石になっただけでなく、戦後日本の平和と安全を保障する人身御供になった。

その思いは、時を経るごとに贖罪感となって天皇に重くのしかかっていった。それを物語るのは、卜部日記や「富田メモ」に頻繁に出てくる沖縄に関する記述である。

「寺崎とシーボルトとのこと」(卜部日記、昭和62年8月21日)

「沖縄の印象ー現地二紙の紙潮。シーボルト文書に何か対応なきや」(「富田メモ」昭和62年11月17日)

現地二紙とは、琉球新報と沖縄タイムスのことである。二紙とも左翼系の新聞として知られているから、

天皇としては、その論調が特別気になったのだろう。ここで垣間見えるのは、したたかな政治化としての天皇の顔である。

それから約一ヵ月後の「富田メモ」には、40年前のシーボルト文書のことが、またむしかえされている。

「沖縄とシーボルト文書のこと」(昭和62年12月15日)

卜部日記の記述は、まだ天皇の病状が公にされず、天皇の沖縄訪問計画が着々と進められていた時期のものだから、

不思議はないが、「富田メモ」の記述は、

天皇の病状が明らかになって以後のものだから、沖縄訪問にかける天皇の執念には驚きを通り越して粛然とさせられる。

 

■天皇の涙

卜部日記と「富田メモ」には、天皇の遺言めいた発言も書きとめられている。昭和天皇が八十七歳の誕生日を迎える前日の昭和63年4月28日の卜部日記には、「靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」という記述がある。 

奥野発言とは、竹下内閣の国土庁長官だった奥野誠亮が、靖国神社参拝後の記者会見で「日本はまだ占領軍の亡霊に振り回されている。何が日本は侵略国家か」などと発言、中国、韓国が強く反発して外交問題に発展し、奥野が混乱の責任をとって国土庁長官を辞任したことを指す。

卜部日記では、靖国合祀問題に関する天皇発言はオブラートに包まれているが、同じ日の「富田メモ」は、靖国合祀問題に対する天皇の不快感が、ストレートに吐露されている。「富田メモ」のなかで一番有名になった天皇の発言である。

〈私は或る時に、A級(戦犯)が合祀され その上 松岡、白取までもが、筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 

松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と松平は平和に強い考があったと思うのに親の子子知らずと思っている 

だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ〉

松岡は日独伊三国同盟を締結し、A級戦犯として靖国神社に合祀されている元外務大臣の松岡洋右、白取はやはりA級戦犯で合祀されている元駐伊大使の白鳥敏夫の誤記、筑波はA級戦犯の合祀問題が検討された時代に合祀を受け入れなかった靖国神社元宮司の筑波藤麿のことである。

また、「平和に強い考」えがあったといわれた松平は、宮内庁最後の宮内大臣となり、戦後は最初の宮内府(その後宮内庁と改称)長官となった松平慶民、「親の子子知らず」といわれた松平はその長男で、昭和53年にA級戦犯を初めて合祀した靖国神社元宮司の松平永芳のことである。

同じ日の「富田メモ」には「“嫌だ”と云ったのは奥野国土相の靖国発言 中国への言及にひっかけて云った積りである」とも記されている。

この三日前の昭和63年4月25日、天皇は恒例の誕生日会見に臨んだ。

この会見で、「今年は陛下が即位(昭和3年11月に即位式)されてから六十年目にあたります。この間一番大きな出来事は先の大戦だったと思います。あらためて大戦についてのお考えをお聞かせください」という記者団からの質問に対し、独特の抑揚とやや甲高い声で、「なんといっても大戦のことが一番嫌な思い出であります」と答えている。

これが「富田メモ」の「“嫌だ”と云ったのは…」発言の意味である。

このとき、天皇の目から涙がこぼれ、頬を伝わったことは大きな話題となった。

また、前年の誕生日会見で宿願の沖縄訪問にふれ、「戦没者の霊を慰めたい」と言ったのにひきつづき、

「沖縄には健康が回復したら、なるべく早い時期に訪ねたい」と答えた。

注意してほしいのは、以上あげた天皇のふるまいが、いずれもガンに冒され、余命いくばくもない状態でなされていることである。

昭和天皇が侍医団も驚くほどの奇跡的な回復を見せ、命の炎を最後まで燃やしつくすことができたのは、自らの肉体の変調を自覚し、後世に伝えなければならない言の葉を残さずには死んでも死にきれないとの思いがあったからに違いない。

昭和63年1月2日、天皇は皇居・長和殿のベランダに姿を見せ、宮中一般参賀客に向かって右手を大きくふり、驚くほど張りのある声で「新年おめでとう。私の健康について皆が心配してくれてありがとう。今年もよい年であるよう希望します」と新年の挨拶をした。

ベランダから退出するとき、天皇は名残惜しそうに何度も手をふった。

それを見た参賀客がからまた、日の丸の小旗が一層激しく音を立ててうちふられた。

5月19日には赤坂御苑で天皇主催の春の園遊会も開催された。前年秋の園遊会は天皇の入院で中止になったため、

天皇主催の園遊会は一年ぶりだった。天皇が会場に姿を現すと、招待者の間から「天皇陛下、万歳!」の声があがった。

6月2日には皇居内の水田で恒例の天皇「お田植え」の儀式が行われ、7月20日には夏季静養のため、原宿駅特設ホームから特別列車で那須の御用邸に向かった。

天皇は相変わらず公務に励んでいたが、この間、貧血で倒れるなど病状は確実に進んでいた。予定されていた夏場所の大相撲観戦も中止された。天皇の体重は、わずか一カ月の間に約三キロも減少していた。

一年前、那須の御用邸で初めて天皇に「ご機嫌奉伺」して、その存在感に圧倒された元朝日新聞宮内庁記者の清水建宇も、

一年ぶりに見た天皇のやつれぶりに驚いた。

最後となった「ご機嫌奉伺」が行われたのは、9月2日だった。天皇はグレーのカーディガンの下にニットのベストをつけていた。

「もう手術した後ですから、今年の『ご機嫌奉伺』はないと思っていたんです。それでも玄関前に集まっていると、

侍従がやってきて、『陛下はご体調がすぐれないから、皆さんには玄関のなかからご挨拶する』という。

しばらくして天皇が車寄せの前に現れたときは、思わず息をのみました。陛下は壁を伝って這うように歩いてきたんです。

よろよろとした足取りでした。去年とはまったく違う。衝撃を受けました。その日はどんよりした曇り空で、玄関の中は暗く、

天皇の様子もよくわからなかったんですが、あとになって侍従が教えてくれたところでは、

陛下はこのときすでに目に黄疸の病状が出ていたそうです」

それから17日後に天皇吐血の大スクープをする日本テレビ報道局宮内庁班キャップの石井修平(現テレビ岩手専務取締役)も、その場にいた。各社ともいざというときに備えて記者やカメラマンを那須に送りこみ、御用邸近くのペンション住まいをさせていた。

「いま考えると、那須でXデーを迎えてもおかしくなかったですね。『ご機嫌奉伺』会見の最前列にいた私には、天皇には黄疸の症状が出ているように見えました。雨が降っていて暗い日でした。那須の肌寒さのせいもあったかもしれませんが、実に物悲しい、寒々とした光景でした」

 

■吐血スクープの内幕

これより約半月前の8月13日、終戦記念日の戦没者追悼式に出席するため、天皇は政府専用のヘリコプターに搭乗し、

那須から赤坂迎賓館のヘリポートに向かって出発した。

天皇の出発を見送った元朝日新聞記者の清水によれば、当日は雨が降っていて、雨がやまなければヘリの運航は中止になる予定だったという。

「ところが、待っているうちに雲の切れ目から光が射したかと思ったら、どんどん晴れ間が広がっていって。古くからの侍従にあとで聞くと、天皇は若いときから晴れ男だったそうです」

8月15日の追悼式では、宮内庁関係者をハラハラさせる出来事があった。

正午の時報とともに黙禱するのが例年のならわしだが、天皇が会場中央に据えられた白木の標柱に向かう足どりが遅く、

その途中で正午の時報が鳴った。このため、黙禱開始の時間が約二十秒遅れ、会場に気まずい沈黙が広がった。

天皇が静養先の那須から東京に戻ったのは、9月8日である。前出の日本テレビ宮内庁班キャップの石井は、天皇帰京後、

天皇Xデーチームの緊張感は一気に高まったという。

「9月18日に大相撲観戦に行かれる予定が、急遽中止になった。そこからは臨戦態勢でした」

9月19日の午後11時少し前、日本テレビ天皇Xデーチームの根岸豊明記者が、代々木の髙木侍医長の自宅に夜回りをかけようと、代々木駅前のスクランブル交差点を曲がった。そこで道路工事の現場にぶつかったのが、大スクープのきっかけとなった。工事中を知らせる黄色いランプは、向こうからやってきたツートンカラーの日産ローレルの車内にいる髙木の姿をはっきりと照らし出していた。

「髙木さんの奥さんがハンドルを握り、髙木さんは助手席にいたそうです。根岸記者はすぐ車をUターンさせて後を追うとともに、自動車電話で社の報道フロアにいた私に緊急連絡してきた。私は別の記者にすぐ皇居に向かうよう指示した」

髙木の車をみつけた根岸記者は途中で車を見失ってしまったため、髙木邸にとって返し、家人に取材すると、『言えない」の一点張りだった。それでも粘っていると、『私用で出かけたのではない』『吹上に向かった』ということだけは、何とか聞き出すことができた。 

一方、皇居に向かった別の記者からは、「髙木さんの車がたったいま、乾門から出てきた。なかには夫人しか乗っていなかった」という連絡が、キャップの石井に入ってきた。

「それらの情報と、侍従や侍医などの取材を総合して、午後11時24分、放送中の『きょうの出来事』のなかで、キャスターの櫻井よしこさんに『たったいま入ったニュースです。髙木侍医長が急遽、皇居に向かいました』という速報を読み上げてもらうことになったんです。その時点で、重大な容態の変化があったことはわかっていましたが、そこまではまだ報じられていませんでした」

この速報に、各社の記者は総立ちとなった。遊軍記者を招集するポケットベルが各所で鳴り、テレビ各社の中継車が押し寄せて皇居前は戦場のような騒ぎとなった。

その年の6月に富田朝彦に代わって宮内庁長官に就任したばかりの藤森昭一や、山本悟侍従長、北白川祥子女官長などの宮内庁幹部が、急を聞いて続々と吹上御所につめかけた。

そんな大混乱のなか、天皇と同じAB型の血液を運び込む日赤の血液運搬車が、テレビ中継の煌々たるライトや、間断なく焚かれるカメラマンのフラッシュを浴びて、サイレンを鳴らしながら皇居内に入った。

侍医長の髙木が天皇吐血の一報を当直の侍医から受けたのは、この日の午後10時半過ぎだった。髙木は前に紹介した『昭和天皇最後の百十一日』で、吹上御所に向かう車中、「いちばん困ったことが起こった。いよいよいけないかな…」と考えていたと、述べている。

この日から翌昭和64年1月7日早朝の崩御まで、天皇の最後の111日間の闘いが始まった。髙木の著書には、「陛下はご自身のご病気については、超越されていたとしか、私には申し上げようがありません」と書かれている。

髙木とともに天皇の闘病生活を見守った侍医の伊東貞三も、天皇の驚異的な生命力と人間離れした我慢強さに驚きを隠さない。

「陛下は本当に痛いとか苦しいとかおっしゃらなかったですね。陛下のような患者さんは見たことがありません。普通の患者さんは、医者を変えろ、セカンドオピニオンを求めたい、というふうになるものですが、陛下の場合、首から下はすべて医者に任せているという感じでした」

あるとき、伊東が天皇に「お痛みですか」と尋ねたことがあった。「痛いとはどういうことか」というのが、天皇の返事だった。

ちなみに天皇は患者ではないという前提から、侍医は白衣を着ず、看護婦も白衣と白帽を身につけなかった。

「寝たきりになられてからも、侍医団はずっと背広にネクタイでした。明治時代には拝診するときは燕尾服などの礼服でやったそうです」

吐血と下血が始まってから約一カ月後の10月23日は、旧暦の9月13日にあたる十三夜だった。

吹上御所のベランダには、ススキ、オミナエシ、萩などの秋草と、柿、きぬかつぎ、枝豆、栗などの山の幸が供えられた。

月がのぼった午後6時過ぎ、寝室の明かりが消され、天皇はベッドに横たわったまま、侍従の卜部が差し出した手鏡に映る後(のち)の月を眺めた。

最後の闘病生活中、天皇が口にしたのは、くず湯と氷のかけら、それに水飴だけだった。それでも天皇は空腹や苦痛を訴えたりすることは、最後までなかった。

〈水飴は10月23日と24日、それにもう一回差し上げました。このとき陛下は、たいそう喜ばれました。

いまでも、そのときの陛下の笑顔は忘れられません。何回目のときだったかは忘れましたが、水飴をあまりおいしそうに、

目を細めてお召し上がりになるので、私が「どうぞ、もう一ついかがですか」と申し上げたことがあります。

すると陛下は「いいのかい」とおっしゃいました。たぶん、陛下としては、我慢しなくてはいけないというお気持ちがあったのだと思います〉(『昭和天皇最後の百十一日』)

 

■大晦日、呼吸がとまった

天皇が病に倒れ、闘病から崩御にいたる時期は、戦後四番目の長期政権になった中曾根内閣に代わって竹下内閣が誕生した時期と重なっている。

東京・世田谷区代沢の竹下邸三階の仏間には、竹下が総理大臣になったときの認証状が掲げられている。

右に皇太子の直筆で、「竹下登 内閣総理大臣に任命する」という文字、中央にやはり皇太子の直筆で、「裕仁」(天皇)、

それより一字下げて「明仁」(皇太子)の署名と天皇御璽、左に、「昭和62年11月6日 内閣総理大臣 中曾根康弘」という前総理の署名が記されている。

天皇と皇太子が連名、しかも天皇の名前を皇太子が書いた総理大臣認証状は、まさに歴史的“お宝”ものだろう。

皇居・松の間の親任式で、この認証状を天皇臨時代行の皇太子から授かった竹下は、それから約十ヶ月後の昭和63年9月16日、翌日開催されるソウルオリンピックの開会式に出席するため、午後5時11分羽田空港発の全日空特別機で韓国に向かった。 

ソウルで一泊した竹下は翌17日の午前中、前々回のモスクワオリンピックでは西側諸国が、前回のロサンゼルスオリンピックでは東側諸国がボイコットしたため、十二年ぶりにアメリカ、ソビエトがそろって参加したオリンピックの開会式に来賓として出席した。

これより二十四年前の東京オリンピックで開会宣言をした昭和天皇は、隣国で開かれたこのオリンピックの模様を吹上御所のテレビで熱心に観戦した。

竹下はその日の午後、青瓦台で行われた韓国大統領の盧泰愚との日韓首脳会議に臨んだ。

この訪韓に帯同し、青瓦台にも同行した内閣官房長官の石原信雄は、ソウルでは天皇の容態が気になってしかたなかったという。

「ソウルに着いた当日、宮内庁から明日の大相撲秋場所の観戦は中止になったという連絡が入ってきたんです。しかし、韓国はお隣の国ですし、しかも外国の最高責任者として開会式に出席したのは竹下総理だけですから、そのまま帰国するわけにはいきません。盧泰愚大統領も非常に喜んで、せっかくの機会ですから韓国の国内をあちこち見てもらいたいと、しきりに勧めるんです。まさか陛下がたいへんなことになったとは言えないので、どうしても帰らなければならない事情があってと説明して、大統領との会談が終わってすぐに帰国したんです」

竹下と石原は青瓦台から金浦空港に直行し、午後7時23分に羽田空港に到着する全日空特別機で帰国の途についた。そしてその足で皇居に向かい、お見舞いの記帳をした。結局、竹下の韓国訪問はわずか一泊だけの駆け足の旅に終わった。

石原の話をつづけよう。

「私は川崎が自宅なものですから、陛下が吐血された9月19日は、翌日に朝早い会議が予定されていた官邸に近い麹町会館(現・ホテルルポール麹町)に泊まったんです。すると夜の10時か11時頃、NHKの番記者から、どうも主治医が皇居に急行したらしい、という電話がかかってきた。それを聞いて、すぐ官邸に行きました。

竹下総理にはもう秘書官の方から連絡が入っていて、皇居に記帳に行かれて帰ってきたところでした」

竹下直子未亡人と次女のまる子によれば、この日以降、竹下はいつでも皇居に30分以内で駆けつけられるところにいるよう心がけ、好きなゴルフにも出かけなかったという。

 

天皇の容態は日を追うごとに深刻さを増し、命の炎は燃え尽きようとしていた。

だが、天皇は驚くべき回復力をみせ、そのつど持ち直した。

侍医長の髙木は『昭和天皇最後の百十一日』で、10月の半ばを過ぎてからは毎日毎日が驚きの連続だった、と述べている。

〈あと4、5日経てば危ないのでは…と思われる場面が何度もありました。

それでも、陛下はその危機を乗り越えられたのです。

10月1日には、最高血圧が百以下に落ち、意識が薄れられたこともありました。

また、29日の夜から30日未明にかけては大量の下血がありました。

11月6日朝から夕方にかけても、大量の下血があり、そのあとしばらくは血圧が非常に下がりました。

12月4日も、かなり大量に出血されています。

そうした危機をすべて、陛下は乗り切られたのです。たとえて申し上げるなら、

百メートル競走なのに、百メートル過ぎてもまだ走っておられる。

そして、どんどん距離が伸び、とうとう最後はマラソンと同じ距離を走られたといったような感じです。

こうして昭和64年をお迎えになられたのは、やはりご仁慈としか申し上げようがありません〉

髙木と一緒に天皇の最期を見守った侍医の伊東は、天皇がよく独り言を言うのを聞いている。

初めは老人特有の症状が出たのではないかと思ったが、やがてそうではないことがわかった。

天皇は誰も相談する人がいないのだ、孤独なんだ。それが伊東の出した結論だった。

昭和63年の年末が押し迫ると、ついに「飛行機のプロペラの羽根が一本一本はっきりとみえるようになってきた」という情報が、宮内庁筋から官邸に届くようになった。天皇崩御はもう時間の問題だった。

昭和63年の大晦日、昭和天皇の呼吸がとまった。その夜の当直医は、伊東だった。

「そのまま放っておいたら亡くなっていたと思います。昭和64年はないかもしれないなと思ったとき、看護婦のひとりが、

陛下のお胸をタンタンとこぶしで強く叩いたんです。意識は戻りませんでしたが、自発呼吸は戻りました。

あとで侍医長の髙木さんにその話をすると、髙木さんは『ダイクがクギを打ちましたか』と言っていました」

髙木の言葉は、天皇の命をとりとめる緊急処置をした看護婦が“ダイク”という名前だったから浮かんだとっさのジョークだった。

窓の外では、東京湾に停泊中の船舶が、昭和64年の訪れを告げる汽笛を鳴らしていた。

 

■竹下総理だけが間に合った

昭和64年に入ってからの天皇の容態は、卜部日記と「富田メモ」に簡潔に記されている。

〈1月1日 830am (体温)37.1℃、(脈拍)94、(血圧)76-48、(呼吸数)14。下血相当量。 

400cc緊急輸血。午后若干量下血(輸血)600cc〉(「富田メモ」)

〈1月2日 午前=(体温)36.9℃ (脈拍98)血圧104-50 呼吸数18、午後=(体温)36.4℃ 

(脈拍88)血圧98-42 呼吸数13 +400cc輸血〉(卜部日記)

〈1月4日(体温)35.5℃(脈拍86)血圧104-42 呼吸数16、少量出欠〉(同)

〈1月5日 930吹上直行、血圧低下し輸血すでに600ccをこえるも上昇見られず また右腕に 組織の壊死が見られ 

御状態はさらに一段と進んだ状態に及んだとの侍医長見解 530(体温)36.3℃(脈拍100) 血圧74-40 呼吸数20 

輸血400cc〉(同)

〈同日 1430吹上 髙木侍医長と。血圧の回復心配。本朝3am頃より(輸血)計800cc。低空T、プロペラやっと回転。

しかし急に機首上げは計らない。心臓が強いのはよいが、低血圧で腎機能外 にも影響しだしており

尿毒症の心配も出てきている。血圧回復しなければ滑空状態になり 軟着陸の公算も〉(「富田メモ」)

〈1月6日 930吹上直行、血圧相変わらず70台 呼吸数32と急増 Hb8.0と何故かアンバランス、530 

(体温)35.1℃(脈拍数93) 血圧68-30 呼吸数26 少量出血〉(卜部日記)

〈同日 呼吸数は落つかれ20位に。血圧は余り上らず。しかしヘモは維持。ユ血はせず〉(「富田メモ」)

天皇が危篤状態に陥ったこの日の夜11時過ぎ、竹下総理大臣秘書官の上野治男(現・法政大学大学院客員教授)は、

東京・目黒区柿の木坂の警察庁官舎で、宮内庁筋から「陛下の容態が相当悪化している。今夜がヤマになるかもしれない」という電話連絡を受けた。

「すぐに竹下邸に電話を入れると、出てきた書生さんがすでに連絡があったという。総理はもう寝室に入っていましたが、

電話口に出て『藤森(昭一・宮内庁長官)から電話があった。だから用意しといてな』と言われました。

それでまんじりともせず夜を明かし、何時だったかは忘れましたが、官舎を出てタクシーをひろい、竹下邸に向かいました。着くと、もう十人くらいに記者が集まっていました。総理も起きていて、もうすっかり準備をととのえていました。

そのまま官邸に向かうつもりでしたが、官邸の方が急なことで総理の受け入れ準備ができていないという。

そのうち総理が『そろそろ行こうか』というので、とにかく官邸に向け公用車を出発させました。首都高に乗ってしばらくすると、自動車電話が鳴って、『皇居に来てください』という。聞いたのはそれだけです。車がちょうど渋谷の電波が届きにくい谷間に入っていたんです。

でも、それが聞けただけでも幸運でした。竹下総理は、陛下が亡くなる数分前に吹上御所に駆けつけることができたんですからね。このとき、総理以外の三権の長(衆参両院議長、最高裁長官)にも連絡がいっていたんですが、間に合ったのは竹下総理だけでした。

竹下が吹上御所に入ったのは、6時29分である。これに対して、原健三郎衆議院議長、矢口洪一最高裁長官、土屋義彦参議院議長は、それぞれ6時44分、6時50分、6時51分に吹上御所入りしている。

竹下が皇居を出てきたのは、天皇崩御から9分後の6時42分だった。それから改元の準備に入るため、官邸に向かった。

上野はその車中で、天皇がもう亡くなられたという前提で「拝訣のご様子はいかがでしたか」と尋ねた。

拝訣とは崩御後の天皇に対面することである。実際の拝訣は、まず皇太后が午前10時30分過ぎに行い、次いで10時34分に新天皇・皇后が行った。

「そのとき総理から聞いた話によると、陛下の病室は二間つづきになっていて、ベッドのある方には、侍医と皇太子・皇太子妃だけが入られていたそうです。そのほかの皇族や侍従は控えの間の方で頭を垂れて、声もなくじっと立っていたと聞きました。実に厳粛な雰囲気だったそうです。それから間もなく、侍医長が皇太子殿下に昭和天皇が亡くなられたことを告げられたそうです」

 

■マッカーサーへの授章

天皇Ⅹデーに関わった人びとは、昭和天皇をどう見ていたのか。まず、皇族と侍医以外で唯一天皇崩御の場面に立ち会った竹下登の昭和天皇観である。

この点に関しては、竹下の最も身近にいた秘書官の上野の話が興味深い。

「竹下総理は、昭和天皇に内奏するときなど、非常に緊張していましたね。準備万端おこたりなくして、

なおかつたいへんな緊張ぶりでした。車で皇居にお送りしていくときに、もうぴりぴりしているのがわかるんです。

そして出てこられると、車の中がもうもうとするくらいタバコを吸う。一気に緊張を解き放っていたんじゃないかと思います。

それに比べると、皇太子殿下の場合はとても楽しそう、というか気楽な感じでした。現在の陛下は、非常にフランクな、

相手に気遣いをさせない方ですので、竹下総理も気が楽だったようです。現陛下は竹下さんに『天皇と総理というのは、

兄と弟のような関係であった方がいいと思います』なんておっしゃっていたそうです」

明治34(1901)年生まれの昭和天皇は、大正13(1924)年生まれの竹下より二十三歳年上、昭和8(1933)年生まれの現陛下は、竹下より九歳年下である。この年齢差だけでも、竹下が昭和天皇に恐懼し、現陛下に親近感をもったのは、ごく自然な感情だったろう。

竹下は学徒出陣世代に属し、戦後は青年団活動に没頭して県会議員から国政入りした典型的な叩き上げである。

そうした境遇も、新旧二人の天皇に対する竹下なりの、“立ち位置”を決めた。

その竹下を政治裁定によって総理にさせた元総理の中曾根康弘(大正7年生まれ)の昭和天皇観は、竹下と相当違う。

中曾根は、天皇から授与される勲章として最高の大勲位菊花大綬章を受け、「臣・中曾根康弘」をよく口にした。

戦前に東京帝大から内務省入りして、海軍主計少佐を経て国政入りするというまぶしくなるくらいのエリート人生を歩んだ。

「昭和天皇は、明治天皇以来の神聖天皇制を維持された方だったと思います。しかし、いまの天皇に替って、その印象は非常に変化し、いわば民衆天皇というか、大衆天皇というか、そういう姿に変わった。たとえば、これは私自身が経験したことですが、宮中に閣僚などと一緒に招かれ、食事の時間になると、昭和天皇は『みなの者、食事をとろう』と、そう言いましたよ。いまの天皇陛下だったら、『みなさん、食事をとりましょう』とおっしゃるでしょうね」

徳川家定の御典医の家系に生まれ、曾祖父が明治天皇の侍医をつとめた侍医一家の伊東貞三(昭和4年生まれ)は、

これまで何度も引用してきた『回想の昭和』は、「昭和に対する個人的な思いをこめて書いた本です。

僕の同級生には特攻隊もいます」という。伊東はそのなかに、「この国、日本の姿 将軍家と宮家」という論考を書いている。

そこには、徳川家と天皇家に仕えてきた伊東家の血筋と、特攻隊世代ならではのユニークな昭和天皇観が展開されている。

伊東はその論考で、宮家と将軍家は両輪の如くこの国を支配した。宮家は権威であり、将軍家は権力だったと述べ、こうつづけている。

〈昭和天皇が崩御されても死亡診断書はない、皇統譜に亡くなられたことが記載される。

ダグラス・マッカーサーが勲一等旭日大綬章を頂いたのを御存知か。

彼は勝った将軍で数年間良くこの国の民を治め、だから授与されたのである。

普通の考えでは一寸奇妙な話かも知れないが、それがこの国の形なのである〉

伊東は要するに、マッカーサーは戦後の一時期、“征夷大将軍”の位を昭和天皇によって与えられたと言っている。

天皇崩御につながる大スクープをした元朝日新聞記者の清水建宇(昭和22年生まれ)の昭和天皇観は、団塊の世代らしい。

「昭和天皇は最後の立憲君主だったと思います。戦前に君主としての教育を受け、戦後、人間宣言をしましたが、

根本においては戦前の精神と変わらずに亡くなった。だから末期ガンで全身に痛みが回っているときでも、

宮内庁長官を呼んでその年の米の作柄はどうかと尋ねている。それは君主としてのふるまいです。

いまの天皇・皇后の時代になって、初めて象徴天皇の時代になったと言えるのではないでしょうか」

 

■家族ドラマの終焉

こうして昭和は終わった。

昭和という時代を天皇という存在を通してみると、昭和が家族のドラマの時代だったということがよくわかる。

卓越した力と圧倒的な存在感を持つ家父長がいて、そばには柔和な妻と従順で気配りを忘れない息子、

そしてそれを支える健気で聡明な嫁がいる。

それは、向田邦子が好んで描いた典型的な戦前の家族の肖像そのままである。表面的に見る限り、まったく破綻のない、

まさに「皇室アルバム」のような世界である。

では、昭和につづく平成という時代はどうか。これも天皇という存在を通してみると、

昭和という時代との差が、あざやかにあぶりだされてくる。

天皇は昨年、恒例の誕生日記者会見を体調不良を理由にとりやめた。またその前には、宮内庁長官がわざわざ記者会見を開き、

異例の発表をしている。

それによると、天皇の不整脈や胃や十二指腸の炎症などの体調不良は、将来にわたる皇統の問題をはじめとする

皇室のもろもろの問題からくるストレスによるものだという。

皇統の問題とは、平たく言えば天皇家の跡取り問題のことである。天皇の詳細な病状の発表といい、

皇太子一家との亀裂をうかがわせる発言といい、昭和天皇の時代には想像もできなかった事態である。

「お痛みですか」と侍医に問われ、「痛いとはどういうことか」と問い返した昭和天皇が、

平成のいま、“心の病”に苦しむ雅子妃を見たらどんな言葉をかけるのだろうか。

決して答えの得られぬそんな問いをしてみたい誘惑に、私はいま強くかられている。

(文中敬称略。次号は平成改元の内幕)